大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

札幌高等裁判所 昭和61年(ラ)10号 決定

抗告人

甲野太郎

相手方

乙川花子

事件本人

甲野勇一

主文

原審判を取り消す。

相手方の本件親権者変更の申立てを却下する。

理由

一本件抗告の趣旨は、主文と同旨であり、その理由は、「抗告人は、現在A市内の実家に戻り、抗告人の両親及び妹と一緒に生活して事件本人を監護し、同市内の会社に勤務しており、今となつては事件本人のいない生活は考えられないし、抗告人の両親も同様の気持ちでいる。事件本人は、まだ三歳の幼児であるから、同人が自分の意見を言えるようになるまで現在の状態を維持して、事件本人を監護して行きたい。」というにある。

二そこで、検討するに、原審及び当審での各資料を考え合わせると、次の事実を認めることができる。

1  抗告人(昭和三四年六月九日生)と相手方(昭和三三年四月一二日生)とは、昭和五七年一一月一五日に婚姻の届出をしてB市で生活し、昭和五八年七月八日に長男である事件本人をもうけたが、抗告人が相手方に相談しないで計画した会社の設立に失敗して多額の負債を抱えたことなどが原因となつて夫婦関係が破たんし、昭和六〇年四月二六日に抗告人を事件本人の親権者と定めて協議離婚をした。

2  ところで、相手方は、右の離婚に際し、自分が親権者になつて事件本人を養育することを希望したが、まだ離婚後の生活指針や事件本人の養育態勢についての見通しが立つておらず、相手方の母乙川春子及び弟乙川夏夫も事件本人を引き取ることに反対したし、昭和六〇年四月一三日には、抗告人の父甲野善蔵の提案により、抗告人から、当分の間抗告人の両親の下で事件本人を養育するものの、「相手方が就職して生活が安定したことを相手方の母と弟夏夫が認め、事件本人を引き取ることを願い出たときは事件本人を引き渡す。なお、相手方が事件本人に会いたいときは、いつでも会つて差し支えない。」旨の誓約書を交付された上、同月一六日に妊娠中絶手術を受けて心身ともに疲弊していた事情もあつて、抗告人を事件本人の親権者と定めることにいつたんは同意し、同月二一日、抗告人を親権者として記入してある離婚届に署名押印し、事件本人は、同日からA市内の抗告人の実家に預けられ、祖父母である抗告人の両親の下で養育されることになつた。しかし、相手方は、そのころから心身の状態が落ち着くに従つて、親権者の決定に同意したことを悔やむようになつていたが、これを撤回しないでいるうち、抗告人は、同月二六日、離婚を届け出た。

3  相手方は、子を思う気持ちを断ち切れず、離婚後間もない昭和六〇年五月二〇日、事件本人を監護養育することを求めて旭川家庭裁判所富良野出張所に親権者変更の調停を申し立てたが、右調停は同年七月一七日に不成立となり、本件審判に移行した。

4  相手方は、高校を卒業して、B市内で食堂の店員として働いていたころ、抗告人と知り合つて結婚し、離婚後は、B市立郷土館の臨時職員などを経て、昭和六一年一月一〇日から株式会社B振興公社の臨時職員に採用され、研修・宿泊・レストラン設備を有する環境改善センター「×××」の売店係として働き(勤務時間午前九時から午後六時まで)、手取りで月収約九万円を得ており、単身で市営住宅に居住し、軽自動車を運転して勤務先に通勤している。相手方が事件本人を引き取つたときは、同人を日中保育所に預けて、行きは相手方が車で送り、帰りは、相手方の勤務時間の都合上、車で約一〇分の空知郡C町に住む乙川夏夫・秋子夫婦(二人の幼児がいる。)に車で迎えに行つてもらう積もりである。しかし、相手方としては、勤務時間の短縮を勤務先と相談して、それが無理であれば地元のホテルでパートで働き、その収入及び児童扶養手当で生活することも考えている。相手方の母乙川春子は、空知郡C町で農業(耕作面積三町歩の水田農家)を営む傍ら、日雇として働いているが、冬期は仕事が暇になるので、相手方の家で同居してもよいと思つている。また、相手方の弟乙川夏夫も、母と同居して農業を営む傍ら、臨時でタクシーの運転手をしており、相手方が事件本人を引き取ることになれば、妻秋子と共にできる範囲で事件本人の養育に協力する考えでいる。

5  他方、抗告人は、高校を卒業して、B市内で眼鏡店の店員として働いていたころ、相手方と知り合つて結婚したが、昭和五九年九月ころから計画したパソコン、ソフトウェアの研究開発を目的とする会社の設立に失敗して、少なくとも数百万円の負債を残し、離婚後の昭和六〇年四月末から上川郡D町所在のホテル○○のフロント係として会社の従業員寮に住み込んで働き、事件本人とは月二・三回の休日にA市内の実家に帰つて同人の様子を見る程度の接触しかなかつたが、同年一二月二〇日に右勤務先を退職して実家に戻り、父甲野善蔵(○××○の社員であつたが、昭和六一年四月から同局の嘱託になり、週二日出勤している。)、母甲野美子及び妹甲野真美(×△三階にある婦人服店「△△」の店長をしている。)と一緒に生活するようになり、A市内の会社で一時コンピューター販売の仕事に従事した後、昭和六一年四月一日から○○××株式会社に就職してプロログラマーとして働き(勤務時間午前九時から午後六時まで)、手取りで月収約一五万円を得ており、この収入の中から、会社の設立に失敗したときに父が整理してくれた負債の立替金の弁済として毎月五万円、生活費として毎月五万円を家に入れている。事件本人は、父、祖父母及び叔母という前記のような大人四人の家族構成の中で、それぞれの人から愛情を持つて大事に育てられ、時に片親だけで寂しそうな表情を見せるものの、心身ともに健全に成長して、安定した毎日を過ごしており、抗告人の両親も、今後とも事件本人を現状のままで監護して行くことを希望している。なお、抗告人の実家は、木造モルタル二階建居宅(○××の借り上げ社宅)であるが、一階が一六畳の居間と台所、六畳二室、浴室及びトイレット、二階が八畳一室及び六畳一室になつており、事件本人は、二階の八畳間で抗告人と一緒に寝起きをしている。

6  抗告人及び相手方は、いずれも健康に恵まれている。それぞれの性格として、抗告人は、人当たりもよく、調子がいいところがあるものの、視野が狭くて考え方も一貫せず、計画性にも乏しく、自己中心的・わがままな性格である一方、相手方は、まじめで辛抱強くこつこつと努力する頑張り屋であるが、思い込みが強くて思考の柔軟性に欠け、自分勝手なところもあるように見受けられる。

7  抗告人及び相手方とも、事件本人に対する強い愛情を持つている。抗告人は、面接をした家庭裁判所調査官に対し、「抗告人は、誓約書を作成した当時、まだ相手方との生活を望んでいたので、その誓約書のとおり相手方を事件本人に合わせる気持ちが十分あつたし、その過程で相手方と復縁できればよいと思つていた。しかし、相手方が事前に何らの相談もしないで親権者変更の調停を申し立てたので、その気持ちがなくなつたし、誓約書は効力を失つた。事件本人が自分の意見を言えるようになるまで現在のままの状態でいいし、今後とも抗告人が事件本人を育てて行く。」旨述べている。これに対し、相手方は、面接をした家庭裁判所調査官に対し、「事件本人自身の意見を聴くといつても、精々同人が小学三年か四年になるまで待たなければならないし、面接交渉も不満である。一刻も早く事件本人を引き取り、『母さん』と呼んでもらいたい。」旨述べている。

以上に認定した事実に基づいて考えるに、相手方は、抗告人を事件本人の親権者と定めることにいつたんは同意して協議離婚をしたものの、子を思う気持ちを断ち切れず、事件本人の親権者になつて同人を監護養育することを強く希望しており、相手方の健康状態、性格、愛情、監護養育に対する意欲、経済力など親権者としての適格性において、抗告人との間にそれほど優劣の差はなく、事件本人の養育態勢についても真剣に配慮していることが認められる。しかし、他方、抗告人の事件本人に対する監護養育の現状を見るに、抗告人が昭和六〇年一二月に実家に戻つてからは、事件本人は、祖父母の家において、父、祖父母及び叔母という家族構成の中で、それぞれの人から愛情をもつて大事に育てられ、心身ともに健全に成長して、安定した毎日を過ごしており、その生活環境にも何ら問題はなく、経済面においても祖父母の協力によつて不安のない状態に置かれていることが明らかである。そうすると、親権者を変更するかどうかは、専ら親権に服する子の利益及び福祉の増進を主眼として判断すべきところ、まだ満三歳になつたばかりで、その人格形成上重要な発育の段階にある事件本人の養育態勢をみだりに変更するときは、同人を情緒不安定に陥らせるなど、その人格形成上好ましくない悪影響を残すおそれが大きいものと予想されるから、相手方において抗告人から前認定2に記載したような内容の誓約書を交付された事情を考慮しても、将来再度検討の余地は残されているものの、なお現段階においては、事件本人のために親権者を抗告人から相手方に変更することは相当でないと言わざるを得ない。

三よつて、家事審判規則一九条二項に従い、相手方の本件親権者変更の申立てを認容した原審判を取り消して、これを却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官舟本信光 裁判官安達敬 裁判官長濱忠次)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例